カテゴリ:突然ですが、よろめきドラマ( 2 )

サヨナラ

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記憶の底に、あなたの残像を押し込める。

さよなら。

簡単な言葉だ。
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by masala_days | 2006-05-28 06:38 | 突然ですが、よろめきドラマ

突然ですが、よろめきドラマ Vol.1

妖しく光る赤い照明と、軽快なサルサのリズムに美代子は酔っていた。
ダンスホールでは100人ほどの男女が入り乱れて大音響に身を任せている。

こうやって激しく回されるの、ちょっと、いいわ。

と美代子は思った。

ジョージは時々、不敵な笑みを浮べながら美代子の身体を抱きすくめ、
頭の芯が痺れるほど何回転もしてターンを決めるのだ。
「何があっても基本のステップを死守するんだよ。いいね」
レッスンが終わって自由時間になった時、ジョージは美代子の耳元でそう囁いたのだった。それから美代子は、どんなに激しい動きの時も、頭の中でサルサの基本リズムである7拍を数えている。

One two three four, five six seven,
One two three four, five six seven,
One two three four, five six seven,

ロンドンに暮らし、毎日、嫌というほど英語に囲まれて過ごす美代子も、
数を数える時はいつも日本語になってしまう。けれど踊っている時は
きちんと英語のカウントが頭に浮かぶのが不思議だった。

彼女の手をとるジョージは、身のこなしひとつひとつに自信が満ち溢れていた。
足元のおぼつかない美代子を上手にリードし、初心者クラスではまだ
習ってもいないステップを強引に踏ませてしまう。

腕を引かれ、背中を押され、ただ彼の指示するままに動き回っているだけなのに、
美代子はいつのまにか、絶対に不可能だと思っていたスピンやターンをこなしている自分に気がついた。

曲が変わると時おり、ジョージは気まぐれに近くにいる別の女性と踊り出す。
美代子も誘われるままに別の男性とパートナーを組む。
すると今度は情けないくらいまったく踊れない。

ジョージじゃないと、駄目みたい。

美代子は相手の男性に申し訳なく思いながら、まごまごと不恰好にフロアを動き回った。横目でちらりとジョージを盗み見る。如才なく長身の美しい黒人女性をリードするジョージには、いつものおどおどした様子は微塵もない。抑えた動きに余裕すら漂っている。

ただの汗かきで冴えない青年だと思っていたのに、踊っている時の彼はうっとりするほど格好よく見えた。職場での彼とは別人のようだ。サルサを始めてからもう5年経つというから、フロアに立つのは今日が30年間の人生で2度目という美代子とはえらい違いだった。

職場での顔。踊っている時の顔。
ジョージっていろんな顔を持っているんだわ。
彼の、もっと別の顔も見てみたい。

そう思いながら美代子は、家ですでに床についているはずの夫の顔を思い浮かべた。
善良な彼には表裏がなく、その時々の気分がそのまま顔に出る。
男に身体を触られながら踊り陶然としていることを知ったら、顔を真っ赤にして
怒ることだろう。日本人の友人と食事をすると嘘をついて夜遅くに出歩いている自分が、とてつもなく悪い女に思えた。

ジョージは一時期、新入社員の女の子と噂になったことがあったものの、
うまくいかなかったと人づてに聞いていた。
ふとしたきっかけで彼がサルサのことを口にした時、美代子はほとんど反射的に、
「私、習ってみたい」と言っていた。日常に埋もれまいと必死でもがいていた美代子の、ほとんど叫びに近い訴えに、ジョージは驚いて目を見開いた。

それからである、毎週日曜日のこの密会が始まったのは。
といってもまだ二度目なのだが、美代子はすっかり本気で今後もレッスンを続ける気になっている。

サルサが好きなのか、ジョージが好きなのか。
……両方とも堪えがたく好きなのだった。
一度入ってしまったスイッチは、そう簡単にはオフにできない。
もっとうまくなりたい。もっとジョージのことを知りたい。

「なんとか生き延びたじゃないか。うまいもんだ」
「だってあなたが強引なんだもの」
「でも他の女性には、あんな無理矢理にリードしないよ」
「私があんまり下手くそだから、からかって遊んでるんでしょう」
「そりゃ、君に大いに気があるからね」

帰り道、鉄道駅まで美代子を送り届けると、ジョージはさらりとそう言い、
肩をすくめて地下鉄の駅の方へ去っていった。ひと気のない深夜の構内でひとり、
郊外まで行く列車を待ちながら、美代子はなかなか冷めやらぬ胸の動悸を持て余した。

長く薄暗く、寒かったロンドンの冬が終わろうとしている。
夜の空気はまだ冷たいが、底の方に春の匂いを孕んでいた。
甘く、そして危うい、小さな蕾の開きかけた香りである。

……続く……(のか?)
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by masala_days | 2005-03-29 09:17 | 突然ですが、よろめきドラマ


20代の暗黒時代をインドとイギリスその他あちこち季節移動し続け、30代、やっと日本国で社会復帰。8か月の産育休を経て、現在、働くかあちゃん。オットの不在中に衝動買いしたマンションの借金返済に勤しむ


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